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補聴器と人工内耳 |
『先生…何か言ってください』
思わずそう叫ばずにはいられなかったが
心の中でその言葉を何度も繰り返した
『先生…何か言ってください』
『先生…何か言ってください』
『先生…何か言ってください』
MRI画像を見た瞬間
その画像で視線が止まった
素人の僕でも何かが良くないと理解できる
分かりやすい大学病院の先生の反応だった
『こちらをご覧ください』
先生の一言で診察室にいた僕たちも
食い入るようにMRI画像に視線を向ける
その瞬間訪れた
更に長い永い沈黙
『先生…何か言ってください』から
『先生も何も言えなかった』に思考が切り替わった
『大学病院の先生も言葉に詰まる』んだ…
それでも何でもいいから喋って下さい
『先生…何か言ってください』
再び思考回路が戻る
『先生…何か言ってください』
『先生…何か言ってください』
『先生…何か言ってください』
僕は頭の中で何度そう叫んだだろう
長い永い沈黙…
永遠に続くのではないか?
と思ってしまう程
僕の人生で最も長い永い沈黙
だったような気がする
はぁっと気付けば妻が肩を震わせながら
頬に涙をつたわらせている
涙を流せばこのMRI画像が消せるなら
たくさん涙を流してこのMRI画像を消したかった
でも涙がそのMRI画像を消したのは
ほんの一瞬だけ
僕は頬をつたう前に
その涙を一生懸命まぶたでおさえた
そこにいた看護婦さんがその場の空気に
耐えられなくなったのか?
他の部屋に呼ばれていったのか?
記憶はないが看護婦さんはカーテンの向こう側に
消えて行った
残されたその空間にいる誰も何も言わない
いや何も言えない
子供が産まれてすぐに医者から聴かされた
【先天性難聴】の事実
僕が涙を流せば子供の耳がよくなるなら
いっぱいいっぱい涙を流してやる
でも僕が涙をいくら流しても子供の耳は
よくならなかった
涙を流す時間があるなら
その時間を子供とどう過ごせば良いのか?
を考える時間に使おうと心に決めていた
この子のために流す涙は
この子が大人になって
この子がきちんと人並みにしゃべれるように
なった嬉し涙までとっておこうと決めていた
だからあふれでて
まぶたから零れ落ちそうな
その涙を
僕はその手前でなんとか必死におさえようとした
本当は少し零れ落ちたかもしれない
でもその記憶はない
『先生…何か言ってください』
『先生…何か言ってください』
『先生…何かいってください』
再び思考回路が停止
しかし前に向いていかなければいけない
耐え切れず口を開いた
『先生…手術しても無駄なんですね』
そのMRI画像に映し出されていたのは
耳にのびるはずの聴覚神経がとぎれていた
ほんの数センチ…
あと何センチあれば耳に届く?
なんてくだらない事を考えてみたが
とにかく聴覚神経が届いてないのだ
僕の子供の耳には…
思わず僕は叫んだ…
『先生…神経をつなげてもらえないんですか?』
そのわずかな数センチの空間は
僕の子供のために世界中の医者が研究して
子供に携わってくれれば届くのではないか?
と思ってしまった
その瞬間『はっ』と気付いた
僕の子供のこの耳の数センチの聴覚神経に
頭をかかえるより
もっともっと大変でつらい思いを
している人がいるのではないかという事を
なんて自分勝手で自分中な人間なんだって…
とにかく今は現実を受け止めなければならない
更に重要な現実として先生から
『ダメなのは神経だけじゃなかったんです
その先の耳の部分も見てください』
それまで何度も見てきた耳の形
MRI画像でみるのは初めてだったが
耳の形は何となく分かっているつもりだった
正常な耳に映し出されるはずの
白いもやのように映る影が
その手術を検討していた右耳のMRI画像には
なにもなく真っ黒だった…
三半規管や蝸牛と呼ばれるいわゆる内耳部分の
奇形…いや喪失…
つぶれているのか?もともとそこにないのか?
そんなくだらない事よりも
内耳がMRI画像には映ってなかった…
手術を検討していた右耳には内耳がない
神経もつながっていない
右耳には人工内耳の手術は出来ない
何度も何度も悩み苦しみ
右耳120デシベル以上
左耳50~60デシベルレベル
ならば悪い方の右耳に機械をいれよう
何年もかかって検討し
ようやく決断した結果がこれなのか…
失望感にひたっている時間はこれまで
悩み苦しむ時間によけいに使ってしまったので
もう悩む時間はなかった
ならばまだわずかに聴力の残る左耳に
機械をいれよう
そう思うしか答えは見つからなかった
人生で経験した長い永い沈黙の先に見えた
新たな希望の光
開き直りではない
神様が与えた試練でもない
子供の明るい未来のために
その先の明るい未来にむかうための
新たな希望の光
もう迷う事はなかった
僕よりもっとたくさんのこのような場面を
経験しているはずだから
何か言ってくれるはずだと思っていた
大学病院の先生も言葉に詰まる瞬間
があるのだ
先生が何も言えないなら
僕たちの方から何か言うしかないのだ
『先生…左でお願いします』
決断は先生ではなく
自分自身の心なんだって事
経験豊富な大学病院の先生のアドバイスを
受け入れるのも拒否する権利も
僕自身にあるんだ!!
